昭和43年6月3日 朝の御理解
信心の心得 一、 用心は、前からたおれぬうちの杖ぞ
これはいろいろ意味がございましょう。今日はこれからどういうことを教えて下さるんだろうかと思うたんです。そしたら、天地金乃神、金乃神というところ。どうして金という字を使われたのであろうか。金光教という、その金の光とは、どうしてそうされたのであろうか。土(どろ)の光でもよかったのに、この金という字を頂くんですよ。
そこで、私は思うのに、お金は私共には、いよいよ大切なもの。なくてはならないもの。少ないよりは多くあったほうがよいもの。多くても邪魔にはならないもの。金故に争いが起こったり、命を落としたりするようなことがあるけれども、金がなからなければ、人間は本当の幸せはない。そういう大切なものですけれども、それによって争いがお起こったり、命を落としたりするようなことにもなりかねない。
ですから、用心はたおれぬうちの杖ぞということは、そういう金をお互いが身につけさせて頂いたときにその金がです。金の光。それが光になるようなおかげを頂くということと、ようく覚えて、それを十分自分の腹の中に入れさせて頂いて、金を頂かねばならない。
用心はたおれぬうちの杖ぞ。金故に倒れる、金故に争いが起こる。そういうことのない前に、その金の、言わば本当の光というか、それを身につけていかなければならない。それを頂かずして金を身につけたりするところに、金故に命を落とすようなことになる。いわゆる金によって不幸の元を作っていく。そういうものを金というのは兼ねておる。
そこで、金光様の信心をするものは、金に光を放つような、金の値打ちを値打ちとして顕しうる、金の、所謂生きた使い道というものを体得するということが、たおれぬうちの杖ぞというてあるのだと、思います。
勿論今日の場合ですね、これは金といえば汚いもののようにいうけれども、金ほど有難いものはない。何を貰うより金のほうがよかでしょうが。自分のよかもんを買われるから。高価なものを貰っても、あんまり嬉しくない場合があるでしょうが。それだけがたの金を貰えば金のほうがええ。そんなに金というのは、言わば力を持っておる。
どんなに心の中が暗い時でも、金の顔を見るとニコッとする。そういうように、本当に、人間を心から和らぎ賀ぶ心にするだけの力というものを、金というのは持っておる。そういう力を持っておる金が、人を傷つけたり、殺したり、金故に争いが起こったりというようなものでもあるということを、私どもが、本当に承知させて頂いて、その、お互いが、どうでもお金が必要であり、また、それがなからなければ人間の幸せにはなれないという、もう欠くことのできない大切なものをです。いよいよ金の光として・・・。
金光教というのは、お金儲けの神様と、よく言われるけれども、これは嘘じゃないと思う。金儲けするごたる神様なら、信心なしょうごつなかという人もあるかもしれんが、本当に金光様の信心は、金儲けの神様だと、本当にわかって、それが儲かられる信心であったら、みんな金光様の信心を頂きたいと、こうなるだろう。なぜかと。みんなが求めておるものだから・・・。
ですから、確かに金光様というのは、どういうわけで、金の光となったのだろうか。これは天地金乃神という神様のお名前の中にも、金の字が入れてあるでしょうが、その、教祖様もやはり、金の光様である。
だから、私たちも、金光様の信心すりゃ金にだけは不自由せんですむおかげの頂けれるような、おかげを頂くということも、確かに金光教の神様は、金儲けのできる神様というても間違いない。
金というのは要らんというものはだぁれもいない。いくらあったっちゃよいもの。本当に金の神様になろうごたる。ところが金光様の信心はですねぇ、なかなかその、あちらは金光様の御信心なさるから、金持ちだと。言うのは少ない。所々にはある。たまにはある。
例えば隈田博士とか、甘木の平田さんとかは、差し当たり金の神様、金の不自由をしない。そういう人たちがたまにはある。
そこで、その金の神様といわれるような人たちが、金をどういう風に頂き、どういう風に扱い、それに対して、どういう風な思いを持って折るかということを、私共が体得するところからです。お互い、金の神様になれる。言うならば、大黒様になれる。そこんところを頂かせてもらう為に、お互いこうして、深く、広く、信心をさせて貰う訳なんです。
それは何故かというと、用心は倒れぬうちの杖ぞということになるのです。金光教の信心を頂いておる氏子には金だけには不自由させんと言うようなおかげを頂かせてやりたい。そこで、さぁ、用心は倒れぬうちの杖が出来たかということ。
どれだけ持たせても、持たせても、それを生かして使うことだけは体得したい。それによって、争ったり、傷つけ合ったりすることのために、神様は金をかえって渡しなさらん。金光様の御信者の人には、そこで、その日暮らしのなかから、いよいよ金の有難さをわからしてくださる。
だから、ここんところの信心が分からして頂いた時に、用心は倒れぬ内の杖ぞ。ということになってくるのじゃなかろうか。
それが、確かに、お金だけには絶対不自由しないという人達が所所にはある。それは、金光様の信心すりゃ、こういうおかげを受けられると、身をもって分かっておられる。だから、金には不自由せんですむだけの金の徳を受けた人達は、どういう信心を頂いておるか。どういうような金に対する頂き方をしておるかということをです。つぶさに分からしてもらわなならん事が分かる。
それが分かることが、そして、それがそうだと信じることが転ばぬ前の用心であり、転ばぬだけの杖なのです。
お互いが、喉から手が出るように欲しいお金。ですから、神様もやりたいというお気持ちに違いはないけれども、そのやったことによって堕落する。金によって怪我をさせる。それでは、いよいよ金が敵のようになりかねないから、金光様の信心すりゃ、いよいよ金に不自由することになる。
何故不自由させなさるか。その金の値打ちというか、金の光を分からせたいために、金の光を身につけさせたいために、不自由させておられるということを分からなければならない。
そして、どうでも、金光様の信心すりゃ、億万長者のおかげの頂けれる徳を受けなければならない。今日、私は、この用心は倒れぬうちの杖ぞという信心の心得を頂いて、それは、どういう風にこれを御理解下さっただろうかと開けてみたら、天地金乃神の金のところだけを頂いた。「金の杖をつけば曲がる。木や竹は折れる」という金の杖のところだけを頂く。
御理解百節の「めでためでたの若松様よ」というようなおかげの子孫繁盛、家繁盛のおかげの頂かれる。そういう道を教えるのじゃとこう仰る。もう子々孫々金だけには不自由せんですむような、言わば道を教えて下さる。
金光大神というのも、金の光様と書いて金光様である。言わば、打ち出の小槌を、子々孫々にまで残しておけれるようなおかげを下さりたいという神の願いがです。用心は前から倒れぬうちの杖ぞという、この杖を頂かせて頂かねば危ない。しかし、これを頂いたが最後、金には不自由することのないおかげの頂けれる信心である。
小倉の初代桂先生が、九州に出られるときに、四神様が仰ってあることも、この福神を供にして行けば、と仰ってある。三井教会の初代も、それと同じようなものを頂かれてあるですねぇ。
福神、所謂金の神ということだと思います。金の神様ですから。それを信心するものは、金には不自由せんで済むだけのおかげを下さることの出来れる神様なんだ。
けれども、そこは神様。その金故に争いが起こったり、金故に命を落とすようなことがあったりしたんでは、おかげがおかげになりませんから、所謂、「用心は前から倒れぬうちの杖ぞ」というて、この倒れる前からの杖を頂かして頂くために、それ前にしっかり信心の稽古をさせてもらう。所謂、打ち出の小槌的なお徳を授けるために、神様はしっかり私どもの信心を鍛えて下さる。
その、いうなら手本が平田さんやら、隈田博士の御信心から、成程、無尽蔵に限り無く、金には不自由せんというようなおかげを受けておられる人達を見本のように見せて下さってある。
ですから、そういう人達は、どういう風にお金に対して、見、頂き、生かして使うことを会得しておられるかということをです。皆さんが会得されたら、それが、転ばぬ先の杖になって、金には不自由せんですむおかげが受けられる。
危のうして危のうして、まあだまあだ転ぼうごたるというのが、現在の合楽の人達の姿じゃなかろうかと思うのです。
どうぞ今日は、一遍、金の神とか、金光教とか言う主神に対しても、金の字が使ってある。それを顕しなさった教祖様にも、金の光という、金の字ばかりが使ってあるということをです。不思議だと思うて頂いて、ですから、金にだけは不自由することはないと確信して頂いて。それには、用心は前から倒れぬうちの杖じゃと仰る杖を本気で頂かせて頂くところの精進ができて行かなければならない。それが身について行かねばならないということを思いますね。どうぞ。